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いのち

岩出小学校の図書室に、『葉っぱのフレディ-いのちの旅-』という絵本があります。樹の葉っぱとして生まれたフレディという男の子が、自分はなぜこの世に生まれてきたのか、自分はこれからどうなっていくのか、「死ぬ」とはどういうことなのか、ということに思い悩みながら、やがて静かに永遠の眠りにつくというお話しです。小さな子どもたちには大変重いテーマである「生と死」を果敢に取り上げた作品で、中学校の英語の教科書にも採用されています。

作品の冒頭で作者レオ・バスカーリアが次のように述べています。

「この絵本を 死別の悲しみに直面した子どもたちと 死について的確な説明ができない大人たち 死と無縁のように青春を謳歌している若者たち そして編集者バーバラ・スラックへ贈ります。」

高度に医療が発達した現代社会では、死を身近に感じることが大変難しくなっています。病気になれば病院に行き、場合によっては入院し、それでも良くならない場合には、ほとんどの人たちがそのまま病院で息を引き取ります。医師は1日でも1時間でも長く命を持たせることが使命のひとつですから、患者や家族が望めば、胃ろうや特殊な点滴等によって生命維持に必要な栄養を口以外の場所から補給することになります。食欲がなくても半強制的に栄養を体内に入れられるわけですから、当然、自然な死を迎えることはかないません。今、病院では人の自然死を見たことがない医師が増えていると聞きます。

病気や老衰で体が衰えると食欲がなくなります。食べ物を摂取しなければさらに体力が衰えて、最終的には生命維持が出来なくなり、死に至ります。草花は、花を咲かせ、結実し、子孫を残すというその使命を終えた後には自然に枯れ、その一生を終えます。枯れつつある草花にいくら水や肥料を与えてもどうなるものでもありません。人間も同じです。

最近、父を亡くしました。享年88歳の一生でした。体力の衰えで身の回りのことが自分では出来なくなっていましたので、施設に入所していました。特にどこが悪いということではなかったのですが、誤嚥により肺炎を起こし、熱が上がったり下がったりを繰り返すうちに食欲がなくなり、そのうち意識がもうろうとなり始め、最終的に呼吸が止まり、最期を迎えました。特に苦しむこともない、ごく自然な死でした。ちょうど私と家内が様子を見に施設を訪問してから約1時間後のこと。最期の呼びかけにはっきりとした反応を見せ、その後は昏睡状になり、私たちが見守る中、静かに呼吸が停止しました。病院に入院させることも考えましたが、この歳で検査や治療を受けさせることが果たして本当に幸せなことなのだろうかと考え、病院ではなく、その施設で最期を迎えさせることを選択しました。はたして正しい選択だったのだろうかと今でも思うことはあります。しかし、あの自然な死の迎え方を思い起こすと、やはりあれが最善だったのだろうと思うのです。

自分が最期を迎える時には、無駄な延命治療はしないでほしい、と家族にはいつも言っているのですが、家族にとっては、実際にそうなったときの判断には相当の勇気がいることでしょうね。人は必ず死ぬのです。多くの人はその当たり前のことを無意識に避けながら生活をしています。なぜなら死を考えるのがこわいからです。

葉っぱのフレディーが「ぼく、死ぬのがこわいよ。」と言ったことに対して、親友のダニエルは答えます。

「まだ経験したことがないことは、こわいと思うものだ。でも考えてごらん。世界は変化し続けているんだ。変化しないものはひとつもないんだよ。春が来て夏になり秋になる。葉っぱは緑から紅葉して散る。変化するって自然なことなんだ。きみは春が夏になるときこわかったかい? 緑から紅葉するとき、こわくなかったろう? ぼくたちも変化し続けているんだ。死ぬというのも、変わることの一つなのだよ。」

このダニエルのような境地に至ることは並大抵のことではないような気がします。しかし、生きていることの価値を再確認するためにも、時には自分の死について考えることも必要なのかもしれません。

平成27年10月15日

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最終更新日:2016510